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祈りの言葉 By 渡辺

物心ついた頃から、誰に教えられる事もなかったのに
何故か毎日眠る前に“祈り”をする習慣があった。

家には神棚も仏壇もなかったし、法事を行なう本家でも無かったので
先祖代々どんな宗教なのかもよく知らずに育ったのだが、田舎の方には
ちゃんと仏壇があって、法事にお坊さんが来てお経をあげて頂いていたから
キリスト教とは御縁がなかった事だけは確かだ。

でも私の祈りは何故かキリスト教でやるように手を組み合わせるポーズを作って
「世界が平和であります様に。みなが幸せであります様に。」
と心の中で祈る方法だった。

おかしな事にどういう理由から何を切欠に始めたのか?
どこからそんな祈りの言葉と手を組むポーズの発想が来たのか?その
エピソードが全く思い出せない。

ただし、子供心に毎日の祈りは“欠かしてはいけないもの”として義務のように
ぶつぶつとやっていただけで、祈りは決して天使のような気持ちからでも
世界中の見た事もない人たちの平和や幸せを意識したものでもなかった。

それでそのよく解らんけど義務のような祈りの習慣は思春期が来た頃、ハッと我に
返ったように「何で世界平和だよ??」と恥ずかしいような馬鹿げた様な
気持ちになって止めてしまった。
後にそのエネルギーは恋占いや親への反抗に注ぎ込まれる事となる。。。

思春期の自分事だけでカツカツな10代後半から、自力で何でも切り開ける
と過信した20代、人生の意味も考えずただ目の前の事に必死だった30代を経て・・・・

そしていつからだったか、いつの間にかまた、私は祈りだしていた。

ただし、その祈りは子供の頃の様な純粋なものではなく“神頼み”であり
“願い事”になってしまっているし、“祈り”と“願い事”の区別がつかない
そんな厚かましい大人の私は堂々と自分にこう言い聞かせている。

「“祈り”ではなく“願う”と言う気持ちでも、有ると無いでは大違いで
アレコレ不安になったり、ただ心配するなどの“感情”に振り回される前に
『一体自分は何をどうしたいのか』を整理するいい時間になる。」って。

勿論大人になった厚かましい私だって社会正義や道徳心から“世界平和”も祈る。
でも、それに合わせて小我も見つめ続ければ、ちゃんと大我につながるから
正義や道徳心とは違う角度からの静かで感情的に抑揚の無い祈りが生じる事
も知っている。

だから先ずは“神頼み”も“願い事”もちっぽけな小我を知る為には悪くは無い
作業だと思っている。

そんな折、先日読んでいた本の中に書かれていた“祈り”を見て
大人になった私が大切にできそうな“祈り”の言葉を発見した。

何を祈ったとしても、例え願い事が発祥だとしても
既に自分に与えられているものに気づかされる祈りで
祈りながら感謝が溢れてくる言葉だった。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 大事をなそうとして力を与えてほしいと願ったのに
   慎み深く従順であるようにと弱さを授かった

 より偉大なことができるように健康を求めたのに
   よりよきことができるようにと病弱を与えられた

 幸せになろうとして富を求めたのに
   賢明であるようにと貧しさを授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
   謙遜であるようにと弱さを授かった

 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
   あらゆることを喜べるようにと生命を授かった

 求めたものは一つとして与えられなかったが
   願いは、すべて聞き届けられた

 もっとも小さき者であるにもかかわらず
   心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

 私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ

 人は、さまざまなものを願い求める

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

『祈りの言葉』より抜粋
著者:青山 圭秀 出版社: 幻冬舎


(横浜校/渡辺)
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